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日本思想が染みついている私にとって、左伯先生のお話しは泣きそうなほど感銘を受けました。ありがとうございます。鈴木大拙や西田機多郎の思想は世界平和になると信じている私にとってはありがたい動画でした。左伯先生の仰っている事が、鈴木大拙と西田機多郎の言葉のようにも感じました。日本人特有の思想を大切にというか、本来の人間のあるべき姿なのだと思っています。ただ、西田哲学ですとか鈴木大拙などは現代の日本人にどのくら理解できるのか謎です。ほとんどの人が、西洋文化に慣れてしまっていますから物事を二元論で考える癖のようなものは自覚しないと取り除く事は難しいようにも思います。ただ、日本的思想は人間は皆、元々備わっているので、その事を忘れてしまってりるだけなので気づく時が必ずくるのだと鈴木大拙は言っていました。「自分、l自分と言っている自分が何処にあるかだ…。何処にもないですね〜。」と鈴木大拙の言葉が頭に浮かびました。お互いがお互いをを了解し合える文化ができる事を信じたいと思います。
私は、佐伯教授の心の風景を西田幾多郎の解説から垣間見ようとこの講義を聞かせていただきました。私は、人の思考よりそのひとがどうしてそのような考えを持つようになったかに興味があります。
佐伯先生の講義素晴らしい。ありがとうございます。この後も何度も見返したいと思います。コメント欄もいくつか凄いレベルが高いものがあって勉強になりました❤
西田幾多郎好きなので助かります!!早速見ます!
西田幾多郎の世界観はとても観念論的なものに思えます対象に名前をつけて概念化して捉えるのではなく、経験そのものに中心を置く。主と客に分つ作用がはたらくならはたらくだろうし、それすらも経験に飲み込まれている(経験内のこと)とも言える。対象もなく私もいないその純粋なる経験はどこで起きているのかと言えば、それが「場所」ということになるんでしょうか?どことも指せない場所。場所ならぬ場所ここで全てが立ち現れるとするならば(今もまさに!)、インド哲学にも通じる壮大な観念論的世界観になりますね😊「物事が存在するということよりも 存在しないってことの方が大事」ある、ないの比較による無を内包する絶対無なる「場所」この「場所」を物理的なスペースとしてつかんでしまうと、なんというか思想としての味わい深かさがなくなってしうような佐伯先生の透明なテーブルのたとえがいまひとつビシっと決まらないのは、先生が「場所」というものを物理的なものとして語ってしまっているからではないでしょうか?存在というものの無常性について語っていましたが、それはあくまでも現象について語っているに過ぎず、そこは在ったものがなくなっていくというレベルの「在る」と「ない」のお話だと思います西田の言う「場所」とは、その現象を内包している場という意味合いが濃いのではないでしょうか?ではそこはどこなのか?といえば、そこは語れる領域ではないのだと思います😊
この授業は、日本が進むべき方向を感じることが出来る素晴らしいものでした。個人的には、日本はこれまでの人間中心社会から自然中心社会へ移行していくと思います。授業の中で桜との一体感の話しがありましたが、その一体感を西洋が辿りついた量子力学という学問を通じで多く人達が知的にその感覚を経験することでしょう
面白かったなあ。西洋史の文化と文明の過程と現在の世界的状況が見事に語られ、うんと啓蒙されました。概念の神は死んだが、理性はその神に到底及ばないながら、神のように死ぬ訳にはいかない。とはいえ、戦争は狂気ではなく理性がしてきたと思える。どうなるのか。
佐伯先生の語りは、面白いし心地よい。西部先生とはまた違った語りの上手さ。佐伯先生の話をもっと聞きたいなー素晴らしいチャンネル。本当に素晴らしい。
面白かったです。今の西洋の行き詰まり感が全く違う文化の日本に興味を持つのもわかるような気がしました。
日本が特別、というのは幻想遅かれ早かれ、土地という縛りから放たれれば人間なんて似たようなもんではその差異の大小をどう捉えるかは人それぞれだとは思いますが、西田先生が現代を生きていたら同じように考えるだろうか?
16:00 啓蒙思想と聖書思想のこと?17:00 相対主義のこと?
17:05ニーチェ
1:21:51 だから、「日本文化の本質」とか言わないで、というのが禅の教えですよ!関係ないんだから。フランス人だって、「フランス思想」なんて言わない。ルソーもゴダールもスイス人です。
😊😊😊😊
貴著「西田幾多郎・無私の思想と日本人」を拝読しました。日本人必読の書です。しかし私は、微妙ですが、いまいち、頭では理解できても腑に落ちないところがあります。なぜ腑に落ちないのか、そこが問題ですが、結局、味方の相違であるということがわかりました。その相違とは、先生は西田幾多郎を傍観しており、私は自観しているということです。山を見るのに鳥となって山を離れて客観的に山を傍観するか、山の中に入って山を自観するかの違いです。フイヒテの哲学は、「我思う故に我あり」といったデカルトとは異なり、いきなり「我あり」を定立するところから始まります。この「我あり」は絶対無の場における我で、一般的な意味での我ではありません、自観の我なのです、自分が自分自身をみるのです。フイヒテ哲学の核心は事行(Tathandlung)ですが、事行とは知るものが知られるものであり、知られるものが知るのもである」という「作用が作用自身を対象として発展する動的な知で、働く(作用)ことが知ること、すなわち「行即知」です。因みに仏教では、宇宙の働きをブラフマンといい、その働きが人間に降臨して意識の働き(意識作用)となりアートマンとなると考えています。動的世界には物は存在しないのです。結局、先生は「存在の立場」であり私は「当為の立場」であると言えるのではないでしょうか。
博識に敬意を表します。誤字があるのが少々残念。横長の文章は読みにくいし また全体を簡潔にまとめて頂きたかったです。
1:09:48 「日本の」「日本思想」「日本人は」という主語をつけないほうがいいです。「私」が無であるように、それ以上にその場合の「日本」は虚構です。せめて、「日本では」または「禅においては」とした方が正確で健全です。戦争にもなりません。
解説なんて野暮だとは思いますが、まぁ、自分の思考を整理させてもらう意味でもここでさせて下さい。以下常態で記述していますがご容赦を。本題については、認識論と存在論に関わる話です。物をどのようにして認識しているか。物がどのようにして現れてくるか。物がどのように存在しているか。これらは互いに関係し合う話だと思うが、この認識論と存在論が西洋の哲学史では重要ではある。そして、古典的な西洋哲学は、主体と客体の分割、つまり物の実体性を認めたと。ここら辺で参考になるのは、カントやその前の経験論、合理論、また、フッサール現象学だろう。そして、日本についてはどうか。日本の場合は、簡潔に言って、「経験の場のみが発生してくる」ということだろう。本を読んでいる時、そこには本を読んでいるという経験が存在する。その後に、読んでいる人間を主体とし、読まれている本を客体とするのは、西洋思考を利用した分析であって、日本の存在論ではない。また、この西田と共鳴する思想家にハイデガーがいる。フッサールもハイデガーも同じ現象学という方法論を用いるが、フッサールは西洋の典型、ハイデガーは日本的。このハイデガーの特異性はどこからくるのか。それは、人間の身体性からだろう。また、先生の前置きは非常にわかりやすかった。
西田と鈴木大拙は共に臨済宗系の学者。臨在は仏教と言えるのか?
じゃあ何だと?そもそも「仏教」が網羅する思想的な範疇は遠大。まずは前提や定義づけを。
病気になれば、最先端の科学技術に縋ろうとするくせに、よう言うわ!
ワークって何語や
佐伯啓思の軽薄で凡庸極まりない「思想」。
女性の喋り方が…。
好感持てます
役不足やね。
「日本人は〜と考える」ってさも古代からの日本人がそのように考えてきたかのように喋っているけど、それはあなたの主観でしょ?と言いたいところばかりでまったく納得できませんでした。せめて聖徳太子のこの文書が、空海のこの言葉が、と論拠を示してもらいたい。途中から聴くのをやめてしまいました。西田幾多郎の思想の解説を聴きたかったのに、この人の思い込みを聴きたかったわけじゃありません。
ワクワクわ竹中平蔵でわないかいつまでもワクワク。
有とか無とかじゃないんだけどなー
そこからガブリエルに結びつくのは無理があるのか自問自答しています。御意見を聞きたい。
西田幾多郎の無銭飲食
日本思想が染みついている私にとって、左伯先生のお話しは泣きそうなほど感銘を受けました。
ありがとうございます。
鈴木大拙や西田機多郎の思想は世界平和になると信じている私にとってはありがたい動画でした。
左伯先生の仰っている事が、鈴木大拙と西田機多郎の言葉のようにも感じました。
日本人特有の思想を大切にというか、本来の人間のあるべき姿なのだと思っています。
ただ、西田哲学ですとか鈴木大拙などは現代の日本人にどのくら理解できるのか謎です。
ほとんどの人が、西洋文化に慣れてしまっていますから物事を二元論で考える癖のようなものは自覚しないと取り除く事は難しいようにも思います。ただ、日本的思想は人間は皆、元々備わっているので、その事を忘れてしまってりるだけなので気づく時が必ずくるのだと鈴木大拙は言っていました。
「自分、l自分と言っている自分が何処にあるかだ…。何処にもないですね〜。」と鈴木大拙の言葉が頭に浮かびました。
お互いがお互いをを了解し合える文化ができる事を信じたいと思います。
私は、佐伯教授の心の風景を西田幾多郎の解説から垣間見ようとこの講義を聞かせていただきました。私は、人の思考よりそのひとがどうしてそのような考えを持つようになったかに興味があります。
佐伯先生の講義素晴らしい。ありがとうございます。この後も何度も見返したいと思います。
コメント欄もいくつか凄いレベルが高いものがあって勉強になりました❤
西田幾多郎好きなので助かります!!早速見ます!
西田幾多郎の世界観はとても観念論的なものに思えます
対象に名前をつけて概念化して捉えるのではなく、経験そのものに中心を置く。
主と客に分つ作用がはたらくならはたらくだろうし、それすらも経験に飲み込まれている(経験内のこと)とも言える。対象もなく私もいない
その純粋なる経験はどこで起きているのかと言えば、それが「場所」ということになるんでしょうか?
どことも指せない場所。場所ならぬ場所
ここで全てが立ち現れるとするならば(今もまさに!)、インド哲学にも通じる壮大な観念論的世界観になりますね😊
「物事が存在するということよりも 存在しないってことの方が大事」
ある、ないの比較による無を内包する絶対無なる「場所」
この「場所」を物理的なスペースとしてつかんでしまうと、なんというか思想としての味わい深かさがなくなってしうような
佐伯先生の透明なテーブルのたとえがいまひとつビシっと決まらないのは、先生が「場所」というものを物理的なものとして語ってしまっているからではないでしょうか?
存在というものの無常性について語っていましたが、それはあくまでも現象について語っているに過ぎず、そこは在ったものがなくなっていくというレベルの「在る」と「ない」のお話だと思います
西田の言う「場所」とは、その現象を内包している場という意味合いが濃いのではないでしょうか?
ではそこはどこなのか?といえば、そこは語れる領域ではないのだと思います😊
この授業は、日本が進むべき方向を感じることが出来る素晴らしいものでした。
個人的には、日本はこれまでの人間中心社会から自然中心社会へ移行していくと思います。
授業の中で桜との一体感の話しがありましたが、その一体感を西洋が辿りついた量子力学という学問を通じで多く人達が知的にその感覚を経験することでしょう
面白かったなあ。
西洋史の文化と文明の過程と現在の世界的状況が見事に語られ、うんと啓蒙されました。
概念の神は死んだが、理性はその神に到底及ばないながら、神のように死ぬ訳にはいかない。
とはいえ、戦争は狂気ではなく理性がしてきたと思える。
どうなるのか。
佐伯先生の語りは、面白いし心地よい。
西部先生とはまた違った語りの上手さ。
佐伯先生の話をもっと聞きたいなー
素晴らしいチャンネル。本当に素晴らしい。
面白かったです。今の西洋の行き詰まり感が全く違う文化の日本に興味を持つのもわかるような気がしました。
日本が特別、というのは幻想
遅かれ早かれ、土地という縛りから放たれれば人間なんて似たようなもんでは
その差異の大小をどう捉えるかは人それぞれだとは思いますが、西田先生が現代を生きていたら同じように考えるだろうか?
16:00 啓蒙思想と聖書思想のこと?
17:00 相対主義のこと?
17:05ニーチェ
1:21:51 だから、「日本文化の本質」とか言わないで、というのが禅の教えですよ!関係ないんだから。フランス人だって、「フランス思想」なんて言わない。ルソーもゴダールもスイス人です。
😊😊😊😊
貴著「西田幾多郎・無私の思想と日本人」を拝読しました。日本人必読の書です。しかし私は、微妙ですが、いまいち、頭では理解できても腑に落ちないところがあります。なぜ腑に落ちないのか、そこが問題ですが、結局、味方の相違であるということがわかりました。その相違とは、先生は西田幾多郎を傍観しており、私は自観しているということです。山を見るのに鳥となって山を離れて客観的に山を傍観するか、山の中に入って山を自観するかの違いです。フイヒテの哲学は、「我思う故に我あり」といったデカルトとは異なり、いきなり「我あり」を定立するところから始まります。この「我あり」は絶対無の場における我で、一般的な意味での我ではありません、自観の我なのです、自分が自分自身をみるのです。フイヒテ哲学の核心は事行(Tathandlung)ですが、事行とは知るものが知られるものであり、知られるものが知るのもである」という「作用が作用自身を対象として発展する動的な知で、働く(作用)ことが知ること、すなわち「行即知」です。因みに仏教では、宇宙の働きをブラフマンといい、その働きが人間に降臨して意識の働き(意識作用)となりアートマンとなると考えています。動的世界には物は存在しないのです。結局、先生は「存在の立場」であり私は「当為の立場」であると言えるのではないでしょうか。
博識に敬意を表します。誤字があるのが少々残念。
横長の文章は読みにくいし また全体を簡潔にまとめて頂きたかったです。
1:09:48 「日本の」「日本思想」「日本人は」という主語をつけないほうがいいです。「私」が無であるように、それ以上にその場合の「日本」は虚構です。せめて、「日本では」または「禅においては」とした方が正確で健全です。戦争にもなりません。
解説なんて野暮だとは思いますが、まぁ、自分の思考を整理させてもらう意味でもここでさせて下さい。以下常態で記述していますがご容赦を。
本題については、認識論と存在論に関わる話です。物をどのようにして認識しているか。物がどのようにして現れてくるか。物がどのように存在しているか。これらは互いに関係し合う話だと思うが、この認識論と存在論が西洋の哲学史では重要ではある。そして、古典的な西洋哲学は、主体と客体の分割、つまり物の実体性を認めたと。ここら辺で参考になるのは、カントやその前の経験論、合理論、また、フッサール現象学だろう。
そして、日本についてはどうか。日本の場合は、簡潔に言って、「経験の場のみが発生してくる」ということだろう。本を読んでいる時、そこには本を読んでいるという経験が存在する。その後に、読んでいる人間を主体とし、読まれている本を客体とするのは、西洋思考を利用した分析であって、日本の存在論ではない。
また、この西田と共鳴する思想家にハイデガーがいる。フッサールもハイデガーも同じ現象学という方法論を用いるが、フッサールは西洋の典型、ハイデガーは日本的。このハイデガーの特異性はどこからくるのか。それは、人間の身体性からだろう。
また、先生の前置きは非常にわかりやすかった。
西田と鈴木大拙は共に臨済宗系の学者。臨在は仏教と言えるのか?
じゃあ何だと?そもそも「仏教」が網羅する思想的な範疇は遠大。まずは前提や定義づけを。
病気になれば、最先端の科学技術に縋ろうとするくせに、よう言うわ!
ワークって何語や
佐伯啓思の軽薄で凡庸極まりない「思想」。
女性の喋り方が…。
好感持てます
役不足やね。
「日本人は〜と考える」ってさも古代からの日本人がそのように考えてきたかのように喋っているけど、それはあなたの主観でしょ?と言いたいところばかりでまったく納得できませんでした。
せめて聖徳太子のこの文書が、空海のこの言葉が、と論拠を示してもらいたい。
途中から聴くのをやめてしまいました。
西田幾多郎の思想の解説を聴きたかったのに、この人の思い込みを聴きたかったわけじゃありません。
ワクワクわ竹中平蔵でわないかいつまでもワクワク。
有とか無とかじゃないんだけどなー
そこからガブリエルに結びつくのは無理があるのか自問自答しています。御意見を聞きたい。
西田幾多郎の無銭飲食